「銀色のイノシシ」! 巨大魚ナイルパーチをエジプトに追う
「銀色のイノシシ」! 巨大魚ナイルパーチをエジプトに追う
2002年11月。私はエジプトへ降り立った。
目指すは世界三大河川の一つ、ナイル川。その水系に棲む「ナイルパーチ」こそが今回の標的である。鱗を纏う淡水魚では世界最大級とも言われる、スズキ目アカメ科に属す巨大魚だ。
…行程はかなりハードになることが予想される。となると、ちょっとやそっとでは体調を崩さないような、屈強な同行者が必要となる。
選ばれたのは兄の友人の近藤だ。さらに、これまた兄の友人である吉田が参戦を希望し、兄を抜きにしてその友人二人と連れ立ついう変則的なユニットで巨大魚に挑むこととなった。
あぁ、退屈なフライトタイム
エジプトなんてたいして遠くはない思っていたのだが、20時間もかかるらしい。
エジプトがイスラム圏であることはなんとなく知っていた。だが当時、イスラム教では飲酒が禁じられていることはなんとなく知らなかった。そして、そのためにエジプト航空の機内では、アルコール類のサービスが一切無いということも。
旅の前途を祈って乾杯といきたいところだったが、空の上で気づいたってもう遅い。
四度も運ばれてくる機内食だけを楽しみに、だらだらと退屈な時間を過ごすのであった。
今度は、何語?
…学生時代にあれだけ苦労した世界史も、いざ自分がその舞台へ行くとなれば、ウソのように覚えられるから不思議なものだ。人間、前向きにやろうとすれば、あるいは興味があれば、難しいことも簡単に思える。
が、アラビア語はいけない。インドネシア語もそうだったけれど、読めないのだ。読む手がかりが見つからない。丸いところがあってみたり、そうかと思うと急に鋭角に曲がったりして、さらには、右から左に読むらしい。
アラビア語の習得はちょっと難しそうだ
だが一方で、日本語の「あ」とか「め」の湾曲は何Rなのか?「い」とか「う」の隙間は、どれくらい離すのか?と日本語を主言語としない人によく聞かれる。なるほど、外国語の難しさはお互い様なのだ。
問題のアラビア語については、会話帳を買うことで一応の解決を見た。
着陸
そんなことを考えているうちに到着したカイロ空港を飛行機の窓から見る。
一面茶色。目を凝らすと、滑走路以外は舗装がされていない。じゃあその他はどうなっているかというと、土か砂がむきだし。傍に止まっている飛行機が、その土埃を被って茶色くなっていた。セスナの発着所ならまだしも、ここは、国際空港である。
これはえらいところへ来てしまったとツバをのんだ。
遥かなるピラミッド
気を取り直して、ピラミッドへ行ってみることに。エジプトと言ったら、やはりピラミッドだ。あれ?ナイルパーチじゃなかったか?と、思われているだろう。だが生憎、私は普通の旅人であって、せっかくなら見られるものは何でも見たいのだ。
空港からも想像がつくように、道路ももの凄いことになっていた。
車は信号が赤でも構わず突っ込んでくる。クラクション乱れ打ち。追い越しなんて当たり前。前から後ろから、右から左から、どんどん割り込んでくる。おいおいちょっと待て!そんなスピードでバックしてくるな。歩行者は歩行者で、時速60キロを越えている車の前を横断する者さえいる。前方が詰まれば罵声とクラクション、追い抜いても罵声とクラクション。
とにかく、やたらめったらぶっ飛ばす。ブラジル以上に危険な交通事情に、いきなり汗びっしょり。
憔悴しつつたどり着いたピラミッドの外観は思っていたより白っぽく、中に入るとやたら埃っぽい。そして蒸し暑い。剣道部の部室みたいなニオイがした。
前夜祭
さて、一夜明けてアスワンに移動。2002年当時のことであるが、エジプトの治安面はどうだっただろう?
ひったくりにあったり、銃を突き付けられることはない。200m間隔で警察か軍隊が2・3人でかたまり、銃剣をむきだしにぶら下げて見張っているのだ。犯罪が少ないというより、犯罪を未然に防いでいる印象を受ける。
アスワンのホテルのバーで荷物が無事に着いたことを祝し、また、明日からの幸運を祈って、冷えたステラビールで乾杯(外国人旅行者向けのホテルにはアルコール類が用意されていた。とても高くつくが)。
ナイル川での釣行に入れば、ビール自体にありつけない恐れもある。ここぞとばかり、爆発的に飲み貯めしておく。
近藤と吉田は、バーのウエイターのアデルと意気投合し、プールサイドにまでなだれ込んで騒いでいた。
私は、リールにラインを巻いておこうと一旦部屋に戻ったが、荷物を片付けているうちにいつの間にか眠ってしまった。
来たっ?!
それは、稲妻とか雷鳴とかの類じゃなくて直下型で来た。
来た!と思った瞬間には、自分でも考えるより前に便座に祈るように座っていて、その瞬間にはすでに出ていたと思う。
何の話をしているかと言えば、魚に関係なくて申し訳ないが、下痢に見舞われた話である。あれだけ気を付けていたのに、入国して2日目で来た。
ちょっとやそっとで体調を崩す男は、私の方だった。
旅に出れば、こういう現象(下痢)に見舞われることはその国のビザ(査証)だとか神の洗礼だとか言う人もいる。それはそれで良しとしても、少なくとも今回に限ってはちょっとまずいと直感した。
プールサイドでご乱心の2人とは逆に、高級ホテルの広いトイレとベッドの間を8回も移動を繰り返し、朝を迎える頃には起き上がれない程に体力を消耗していて、振り返ってみるとトイレにいた時間の方が長かったように思う。
近藤と吉田は、こともあろうにエジプトへ来てまで二日酔いになって、ベッドに横たわっている。
それでも今日は移動日だから、何とか荷造りをして車に乗り込む。
概略と現実
アスワンからジープで3時間、なんとかかんとかという難しい名前の街まで向かう。そこから9日間、ボート2隻で併走し、1隻は釣り専用、1隻は食料品やその他物資を積み込んで、スーダンの国境近くまで釣り攻めるのだ。
11月はエジプトでも冬に当たる。この時期のナイルパーチは主にトローリングで狙うらしい。使う道具やルアーについては、日本で釣具屋さんにしつこく聞いて揃えてきた。
しかしながら、今や問題なのはそんなことじゃない。ジープの振動に私の下腹部が耐えられるか?心配をよそに車は、やっぱりぶっ飛ばす。今にも人を張り倒さんばかりの形相の緊張感でいっぱいの私と、関節が無くなったようにうなだれる2人を乗せて走ること20分。車は港のような所に着いた。
んっ!?
運転手がどんどん荷物をおろす。ボートが2隻停まっていて、これが君達の船だと紹介された。
「日本から連絡したとき、ここから車で3時間の所からスタートすると聞いたのですが。」
「いや、これが君達の船だ。ここからスタートしてここへ戻る。」
「それじゃあ約束が違う。」
「誰と約束した?船は、ここにある。もう変更できない。」
日本から確認を取った時、いままでほとんど人が入ったことのない場所からスタートする約束だった。しかも、それは船を所有している会社からの提案で、こちらから頼んだわけでなかった。ここから普通にスタートしたら、釣れないかもしれない。
それでも天気が悪い訳でもなく、船がないわけでもない。これは、行くしかないんだ。外国ではよくあることと2人と自分に言い聞かせ、釣り用のボートに乗り込もうとすると…。
ランボー
「♪さ~く~ら~、さ~く~ら~、マイネーム イズ ランボー。」
デカい声を張り上げて、ボートから太ったおじさんが出てきた。
「アイ アム ユアガイド。」
こういうお調子者はかなりマズイ。
出発場所といいガイドといい、いきなり頭をかかえた。お腹と同じくらい頭痛い。
そのガイド・ランボーは、米国のパウエル国務長官(当時)に似ていて、パウエル国務長官はマイク・タイソンに似ているわけだから、ランボーはマイク・タイソンに似ていることになる。そんなことを真剣に考えているうちに、何の確認もしないままボートは動き出していた。
「ここから二、三時間行った場所から釣りをする。釣り道具を全部見せてくれ。」
「こういうルアーを用意してきた。釣りはするけど、トローリングは初めてだ。」
「これだけか?オールニィは?ディプスレイダーは?」
「あぁ~、それ日本に売ってなかった。だいたいそれどういうのかわかんない。」
「何で売ってない?今は、冬でトローリングで釣るんだから、それが必要だゾ。」
「…。えっ、じゃあ釣れない?」
「ラパラがあるから大丈夫。」
どっちなんだ?
釣れますか?釣れませんか?
最初の釣り場に行く間にお互い自己紹介して、どういう方向に進んで行くのか、どういう釣りをするのか説明を受ける。
先に少し紹介したようにエジプトの11月は、冬に当たって気温・水温が低いため、魚は深いところにいる。陸からルアーを投げて釣りたいなら5月が良いらしい。冬は春の産卵にむけての荒食いでアタリ少ないが大型がかかり、春からは、大きくないが浅いところで数多く釣れる。釣れる時間帯は、朝から午前中いっぱい。午後と夜は、あまり釣れない。
出発場所が違う?冬は、アタリが少ない?ルアーが適切じゃない?トローリングは初めて?朝ホテルを発ったから、今は昼?確率の場合は、掛け算だから、これは限りなく釣れないに等しい。
さらに、自然環境の変化で、とはいっても元々アスワンハイダムも人工的に作られたものだけど、最近、あまり大きいナイルパーチは釣れていないらしい。ここ一ヶ月のトローリングの平均サイズは15kgと聞く。
そんなに大きい魚が釣れなくてもいい。現地で、その環境を含めて魚を見て、またそれにたどり着くまでの行程が楽しい。これは、本心。でも、ぜんぜん見られないのは困る。これも本心。
「ここだ。」船を停めた目の前に二つの小さな島があって、その間を縫うようにボートを走らせるという。ナイル川でもダムの上流側、水は止まっているようで、水面には波一つ無い。二つの島は、主に茶褐色の砂で出来ていて草木はほとんどなく、抜けるような青い空とその島が真っ平らな水面に映っている。乾燥しているため暑さはあまり感じないが、すぐに日焼けが始まる程に日差しは強い。
船から半身を乗り出して水中を覗く。透明だ。そして浅い。水深は3メートル程か?水底は砂ではなく岩で構成されていて、その岩に緑色の藻がべったり張り付いている。魚らしい影は一つも無いし、その他の動物もまったく見えない。辺りはとても静かである。
ここでダメだと決めつけてはいけない。ガイドのランボーがここだと言っている。現地のことは現地の人に聞くのが一番。それに、釣りは今から始まるのであって、あと二、三日もすれば、とっておきの場所とかに行くに違いない。今日はトローリングがどういうものか勉強にしよう。
「ぴったり30メートル糸を出してくれ。そうじゃないと水底にルアーが引っ掛かる。」
「30メートルってどうやって測るの?」
「だいたいの目測だ。」
ぴったりなのか?だいたいなのか?
「魚が掛かったかどうかは、どう判断すればいいの?」
「魚が掛かったら(ドラグをゆるめてある)リールからズィー、ズィーと糸が出たり止まったりする。水底に引っ掛かったらズィーーーと糸が出っ放しになる。藻がからんだら、ただ重くなるだけだ。」
近藤と吉田とお互いに見合わせながらルアーを流す。ぴったりとだいたいの間の30メートル位で。
初トローリング
ブロロロロォ、ゆっくり船を走らせて島の間を通過する。トローリングだからゆっくりなんだろうけど、音といい、速度といい、なんだかやる気ないように感じるのは気のせいか?
「♪さ~く~ら~さ~く~ら~。」
また、歌いだした。更に、
「俺は、四年前までの五年間、クルーズ船のスタッフだった。日本からのツアーの客が多く、日本人と一緒に仕事もして、その時この歌を習った。その女性は、ミエといって小さくてかわいかった。俺的には結婚するつもりだったけど、俺のお母さんがダメだって言ったんだ。」と遠い目をした。
そんなことを考えていたのか?
拍子抜けの一匹
「あっ、何か引っ掛かった。」
不意に吉田が言う。ズィー、ズィー。糸が出た。おぉぉぉぉ、掛かったのか?
「魚か?底か?」
ランボーが声をかけるが、初めてだから誰もわからない。近藤と私がオロオロとしていると、バシャバシャバシャ~!ボートの右後方で跳ねたっ。
「魚だっ!ゆっくり、ゆっくり丁寧に巻くんだ。」
竿が太い上、ボートからの釣りである。魚はあっさりと寄ってきて、ランボーにガッチリとつかみ上げられた。
「おぉぉぉぉ、ナイルパーチ~!銀色でスズキみたいだぁ。」と、吉田。
「本当だねぇ。」と、近藤と私。
三人共、勢いがない。こんなにすぐ釣れると思っていなかったから…。ちょっとびっくりして、そのびっくりと嬉しさがすぐに出てこないような、現実じゃないような。
「おめでとう、6キロくらいだ。」
釣れる、釣れるじゃないか。やる気がないように見えたのは、気のせいだったのだ。このゆっくり、フラフラがナイルパーチのリズムに間違いない。バッチグーだよ。
そうすると、ランボーがおしゃべりなのは、お調子者とかじゃなくて、緊張気味の私達をリラックスさせるための心遣いで、ちょっと出っ張ったお腹も何だか頼もしく見えてきた。二本も足りない前歯も愛嬌があるような。
かわいいマイク・タイソンに敬意を払いつつ、食事をとることに。
サプライボートの船員たち
サプライボート(物資を運ぶもう一隻のボート)には、三人が乗っていた。
年配のモルサ。口髭を整えがっちりした体格のムルセ。お腹は、立派に出ていてもまだ子供っぽいポッチャリ系のハマダ。それぞれに挨拶と自己紹介を済ませ、彼等が用意してくれた食事をとる。
サプライボートもトローリング用のボートも2階建てで、食事・トイレ・シャワーはサプライボートで、釣りと就寝はトローリング用ボートで行うのだ。
淡水フグだ‼︎
食事が終わってサプライボートの2階から何気なく水中を覗くと、フグだっ!フグがいる。階段を駆け下りて、水面に顔を近づける。間違いない、フグだ。
「ランボー、ランボーッ!これは、フグじゃないかっ?」
「あぁ、フグだ。フグ好きなのか?」
いや、別に好きでも嫌いでもないけどさ、さっきまでは水中に何も見えなかったし、このフグ大きいよ。三十センチは十分にある。上から見た感じ、Tetraodon lineatusというやつじゃないか?周りをよく見渡すと、船を着けてあるこの場所の水底は砂で、水草も生えている。ティラピアの群れも、タイガーフィッシュもいる。
トローリング用ボートの稼働時間は、7時~12時と14時~17時。理由は暑すぎる昼の時間の体力の消耗を防ぐこと、午前中が釣れること、それに一日に使える燃料の量かららしい。
「ボートを動かさずに、ボートの上からか、陸から釣りをしてもいい?」
「いいけど、陸から釣りするなら必ず2人以上で行くんだぞ。」
小さめのルアーを投げて試しても何も追って来ない。スプーンやスピナーの金属ルアーに変えると、何か追いかけてくるのだが、針に掛かるまでは至らない。と、背後でバシャバシャ~と大きな音がした。近藤か?吉田に掛かったか?振り向くと、
「聖、こいつは大きいフグだ。こいつを釣ってくれ~。」
ムルセとハマダが水浴びしていた。そのネタ面白いけど、そんなに近くで泳ぐんじゃない!
素人軍団大ハッスル
午後になって、またフラフラとボートを走らせる。同じ場所でも、午前中とは違うぞっ!何が違うって気分が違う。ここは釣れる場所なのだ。ほら、来たっ!
3キロ弱のナイルパーチ。今度は、よく観察しよう。目は、う~ん?赤いと言えば赤いような、銀色の硬そうな鱗がギッチリとはめ込まれ、各鰭がビシッと開き、尻尾の根元まで肉が盛り上っている。これは力がありそう。食べてもおいしそう。
ここでうっかりマニアみたいに、背鰭の軟条が何本、水質はどうで、解剖して鰓耙の形を少々、なんてことをしてはいけない。素人には見た目と雰囲気だけで十分です。と謙虚な気持ちが大切なのだ。
盛り上がってくる船内。誰もが一斉にしゃべりだし、次行くぞっ、次っ。
ズィズィズィ、ズィーズィー甲高いリールの逆回転、順番通りに近藤だ。
「グッドフィッシュ!」
ランボーが声を上げる。早めにボートに寄せて取り込む。
「おぉ、大きい、凄い凄い大きいよ。金色っぽいねぇ。」
13キロの大物に、いいのか?こんなに釣れていいのか?
おぉ、また来た、と思ったら底に引っ掛かっていだけだったり、今度はなかなかの大物ではないか?と夢中になってリールを巻くと、3人同時に水草の束が掛かったりして、ランボーは苦笑い。こちらも苦笑い。
細胞燃ゆる
島と島の間を少し越えて大回りしてボートが旋回しようと頭の向きを変えた時だった。
ドンッと重い手ごたえの後、ズィーーーーー!っとリールから糸が出る。
「あぁ~、多分、底に引っ掛かっちゃったよ。」
「ボート回すから、どんどん糸巻いて。」
ランボーがボートを回し始める。ズィーーー。あれっ?おかしい。ボートは近づいている。
「底じゃない、魚だ。竿立てるんだ。」
ランボーの大声が、静かな湖面に響く。
落ち着いて、落ち着いて、ゆっくり深呼吸。鼻から吸って、その空気が流れる道をイメージして感じる。鼻から肺に落ちる空気が凍ったように冷たい、口から出て行く時は、沸騰した湯気のように熱い。ドッドッドッドッ、1000ccバイクのエンジンを腹に入れられたみたいに自分の高鳴りが体中に響く。体は、興奮しきっている、でも頭は意外と冷静だ。いけるっいけるぞ!
「ボートをどっちに回す?どっち側で取り込む?」
「もう少し寄せる、いいか聖?これは、かなり大きい。無理をしないでゆっくり取り込もう。魚の動きに合わせよう。」
魚が止まった。ボートをゆっくり寄せて、ゆっくり糸を巻いていく。ふぅ~ふぅ~、5分も経っていないのに息が切れる。よしっ、ボートの真下に来た。ズィ、ズィ、ズィー!あぁ~、また潜った。
「重たい、竿が立たないよ。岩の下に潜ったのかな?」
「わからない、魚見えたか?糸がたるまないように気をつけろ。」
しばらく膠着。
ちょっと潜って、ちょっと巻くと、またちょっと潜る。誰も口をきかない。糸が差し込む水面はピタッと止まり、辺りも妙に静かだ。竿は曲がったまま、時々、チッ、チリチリっとかすかにリールが鳴く。我慢しきれず、吉田が口を開く。
「デカイの?」
「分からない。」
首を振った。
「いいか、ゆっくり巻くんだぞ。魚が動いたら巻くのを止めろ。」
糸が水面を逃げるように進み始めた。ググッと引き込む力が重い。
「しっかり竿を立てておけ、魚は疲れてきている。」
俺もだいぶ疲れてきているぞ、ランボー。
ゆっくりだけど魚が上がってきた。そろそろ見えるか?そおっと水中を覗く。
イノシシ?
「うぁっ、うあっ!!」のけぞった。なんだ?イノシシが掛かっている?
そんな錯覚に襲われる。
ボート下の真っ黒い魚体は、疲れて上がってきたというより、余力いっぱいのまま、ただ停滞しているように見える。そのシルエットは魚と思えないくらいに大きい。鼻先にかかっている14cmのルアーが小さく見えて頼りない。
もう一度深く潜行した。切り替えして水面へ向かってくる。ジャンプする気か?
あわてて竿先を水中に突っ込む。ランボーが横からしゃしゃり出て来て、
「竿を立てろ!ジャンプさせるんだ!」
「ヤダヤダヤダヤダ、絶対に嫌だっ!」
「ジャンプさせれば魚が疲れる。」
「ジャンプさせたらルアーが外れる。」
「外れない!」
「外れる!」
押し問答している内に私もランボーも疲れ、魚はユラユラと巻き上げられ水面に横たわる。
もう一暴れするか?ここで気を抜けない、ルアーは?あの針の大きさで大丈夫なのか?素早く糸をたぐりよせランボーが顎下にギャフを掛けた。
「ごあぁ~、なんだこれ?おいランボー、俺もう十分だ、帰るよ。」
「30キロだ。一週間やっても、釣れない人は釣れないよ。」
まさか初日でこんなのアリ?こんなの釣れると思っていなかったよ。少し痩せていたけど、張り出した肩口の肉と真っ黒の背中、そして金色のお腹に、先に釣った三匹と圧倒的に違う迫力を感じる。
「聖、これ見てみな。」
そう言ってランボーが外したルアーは、真ん中まで裂けて中に通っている針金が飛び出しているじゃないか。これは、驚く。ルアーが裂けているんだよ!?
「もう、これ以上は望めないね。俺の実力じゃ、これが限界だよ。」
「この魚を見れただけでも良かったよ。」近藤と吉田も喜んでくれる。
興奮して燃え尽きたのか?釣りに関してここから初日の記憶が薄い。
夜は、夜で
サプライボートは、島の湾の中に停まっていて、すぐ脇にこちらのボートをつける。日が落ちると一気に冷え込む。昼間は30~35度で、夜になると15度にまで下がる。まだ十九時だというのに寝袋にくるまって早々眠る。
トローリング用ボートの二階といっても屋根の上にマット引いただけのロフトに一人、風除けのカーテンがついた一階に二人が寝る。近藤はいびきが凄いために選択権が無く、問答無用でロフト行き決定。ランボー他、三人はサプライボートで眠るようだ。
「こんなに早く眠れるかなぁ?」吉田
「ちょっとトイレ行ってくる。」私
シャワーとトイレは、サプライボートについているけど誰も使わない。こういう所に来たら外でするに限る。ライトを持って岩陰に向かって歩いていくと、
「サソリがいるからサンダルじゃなくて靴履いて行けよぉ。」
サプライボートから誰かが言う。サソリ?本当なのか?
サソリ、本当にいた。バケツに入れてボートに置いておいたら、翌朝にはひっくり返っていなくなっていた。みんなには黙っておいた。
朝
ふと目を開いたら、もう6時を回っている。朝か?日が昇っていないから、まだ肌寒い。
「すごいよく眠れたよね、このゆるやかな波が気持ちいいね。」吉田と2人話し、近藤を起こそうとしたら、
「俺、ダメっす。昨日の聖と同じ状況で、お腹と胃が痛い。夜中に何度もトイレ(といっても外だけど)行って、しかも少し吐いた。」とぐったりしている。ちょうどラーメンに乗っいる海苔みたいにぐったりしていて、これは深刻かもしれないと思ったのだ。ランボーに相談すると、
「みんな最初は、お腹下すよ。これを飲みなさい。」
お湯にライムをいっぱい搾ってくれる。ただそれだけ。
出たぁ~、現地の知恵!近藤が一口すすって一言、
「すっぱい。」
当たり前だ。
「他にお腹下している人は?」
反射的にうっかり手を挙げてしまった。
2日目
陸からの釣りにも挑戦する。
ボートから降りて、ルアーが丸見えなほど透明な浜で竿を振る。さすがにここでは釣れないだろう、なんて思う前に1投目の吉田に掛かった。いきなり20キロ。これもかなり大きい。
「あのね、投げるの失敗してね、ルアーが飛ばなかったから巻いていたら、ここで掛かった。」足元を指して言う吉田は、手と足の動きがバラバラだ。子供のように本当に嬉しそう。
お昼にボートを停めた湾にもタイガーフィッシュが見える。ルアーに反応しないので、お昼ご飯のパンを餌に試す。これにも反応しない。巻き上げようと、すっと引っ張ったら、どこにいたのか?わらわら~っと群れが追いかけて来て食いついた。ジャンプを繰り返して糸を引き出していく。引き上げるとちょっと見たことない魚だ。
「ねぇ~、ランボー。これ何?」
サルディーニャ
「それタイガーフィッシュじゃない、サルディーニャ。」
「サルディーニャって何?」
「サルディーニャは、サルディーニャ。」
おっさん係
昼間だけでなくいつも面倒臭そうな、分業がされていないようなキャラが一人いる。
ランボーは、ガイド兼トローリングボート運転係。ムルセは、コック兼サプライボート運転係。ハマダはメカニック兼ウエイター兼なごみ系。
4人で全てをまかなうため、1人が色々役割を持つのに、いつ見ても何もしていないモルサ。常にダラダラしていて、何なんだモルサ。
午後もトローリングで順調にナイルパーチが釣れる。夕方に差しかかって、吉田にアタリが来て一気に糸が引き出され、薄暗くなった空に向かってザバーっとジャンプした。
「グッドフィッシュ!」ランボーが笑顔で声を出す。日が沈んでしまうと真っ暗になってしまうから、先にライト類・フラッシュライトを準備して待つ。これも立派な大きさだ、25kg。
近藤の不調は、大事に至らなかったよう。
心配と現実
私達が大変心配する、魚以外のもう一つのことがあった。ビールについてだ。
実は、釣り出発の前夜に、ボートを所有する会社のスタッフが挨拶と時間の打ち合わせに私達を訪ねて来ていて、その時に近藤と吉田がプールサイドでビールの缶とか瓶とか並べて飲んでいたのを見たらしく、サプライボートにどっさりビールが積まれていて事なきを得たのであった。
魚もビールも思った以上に順調、心配無用なのでここで少し脱線します。
意思疎通
私とランボーは、英語で会話する。ランボーはしっかりと英語の教育を受けている上、普段はヨーロッパからくる釣り客をガイドしているので、綺麗な英語を話す。本人曰く、ドイツ語も堪能らしい。
今回は、英語を介してアラビア語を習おうとしたら、ランボー・ムルセ・ハマダは、ヌビア語が主言語だと言う。
彼等の説明によると、エジプト人とヌビア人は文化も外観も違うらしい。ヌビア人はアスワンから南の方面に住んでいて言葉も全然違う。
例えば、ナイルパーチはアラビア語でサムース、ヌビア語でワッティ。タイガーフィッシュは、同様にケルックバッとネルヨール。フグは、ホマールエルバッとケッキイとなる。もちろんこれは、会話帳に載っていないから聞いて近い音をカタカナで表記しているだけで、当然、その中にも表現できない音は含まれている。
それでも、多くのエジプト人と同じようにイスラム教を信仰していて、一日に五回のお祈りをする。私の見ていた限りでは、日の出の時間と正午前、十五時、日が沈んだ直後。あと一回は、夜中のようだった。
お祈りは、彼等にとってはとても大切で、トローリング中だって何だって、ボートを止めて所構わず祈りだす。ガンガン祈る。そして、私達に同行している時には、ラマダーンという断食の月に突入していて、朝の三時から日が沈むまでは一切の飲食をしないということだった。
3日目
朝から大幅に移動を開始する。移動して2時間後、何も目安が無い沖に浅瀬が浮かび上がる。この辺りまで来ると水はかなり透明で、浅瀬に見えても深さが何メートルか見当がつかない。
ボートを止めて水面を見渡すと、一気に深くなって黒っぽく見えているエリアがある。あそこにナイルパーチがいるんじゃないか?と素人ながら読みをつけた。
ボートの動きも少し早めると、狙い通りにすぐ掛かった。
「よしっ、良い手ごたえだ。ランボーこっちから取り込む。」
何匹目かのナイルパーチに余裕も出て来た。また、30キロを越える。今度は、でっぷりと太っていてまぶしい銀色に輝いている。
「どうして聖には大きい魚が掛かる?本当になかなか釣れないサイズなんだぞ。」嬉しそうに不思議そうにランボーの大袈裟なジェスチャー。
動き出してまたすぐに、吉田に掛かる。今度も凄い!ボートが流れに乗って走ったせいもあって、逆向きに走り出した糸が止まらない。
「あぁ~ヤバい、ヤバい、糸が無くなるぅ。」吉田が振り向く。
「ランボー、糸が無くなりそうだ。」私が声を上げる。
ブァッシャ~ン!!遠くで跳ねた。
「ビッグフィッシュ、ビッグフィッシュ!」ランボーが1オクターブ高い声で叫ぶ。エンジン全開にして魚を追う。
ランボー焦り過ぎ。
急いでボートを寄せてくれたおかげで糸はギリギリ途切れずに済んだ。意外と早く取り込めたから、あんまり大きくないのかな?と思ったらとんでもない!お腹がパンパンに膨れ上がった魚体が横たわっていた。ピカピカじゃなくて、ビッカビカのギランッギランに光っている。その重厚感溢れる迫力が美しくさえある。
さぁて、近藤が黙ってない。順番でいけば近藤だ。
「お魚ちゃ~ん、近藤のルアーに掛かってね~。」おふざけ半分のランボーの言葉通り、近藤に掛かった。ズィーズィー、ズィーーー。これも大きいか?
「あぁぁぁぁ。」やっちまった。近藤、痛恨のバラし。ガックリと肩を落とす。
藪ヘビ
夜、またモルサがだらしなくしているのでプッツンきて、
「あのおやじっちは何なんだ?」とランボーに聞いた。
「モルサは、警備係だ。以前は、警察官だった。おいっ、モルサ!」
モルサがいつも持っているバッグを開けて、当たり前のように銃を出した。
「いつも、見張っているよ。」
4日目
ついにこういう日が訪れた。風だ!風速何メートルとかいう具体的な数字はわからない。しかし、傘をさすことができないくらいには強烈だ。ランボーと一緒に停泊している船を降り、この日釣りをする予定の場所を眺める。
昨日まで水面は、真っ平らでボートも滑るように進んで来た。ところが、今朝になって風にあおられ真っ白い三角波が一面に立っている。この距離から見て真っ白なんだから、水上に出たら大変な事になる。
「午後になれば、風が止む。ここは、とても良い場所だから少し待ちたい。俺はお前がもっと大きい魚を釣りそうな気がするんだよ、聖。」
「風が無くなっても波は、すぐには治まらないんじゃない?」
「風が止めば、ボートが出せる。」
砂漠だから雨は降らない、水位が異常に下がっている訳でもない、ボートが簡単に壊れる訳でもない。珍しくウソのように好調な出だしに、自然の恐ろしさを忘れていた。
今日は、休息日と決め、痛んだ糸やルアーの針を交換して、砂の上を散歩する。冬だからなのか?鳥も少ないし、動物も虫も見当たらない。水中にしても、水草が生えているのだから、小魚がいてもよさそうなのに、ここへ来てから一度も小魚を見ていない。
一度も?
はっと我に返り、一つ気付いた。風呂に入っていない!そもそも風呂は無いから仕方ないんだけれど、シャワーすらも浴びていない。それどころか、服さえ一度も着替えていない。もともとお風呂は好きじゃないし、面倒臭がりだから、着替えとか後片付けとかもあんまり好きじゃない。そんなこと言ったら、近藤だって、吉田だって着替えていないじゃないか!とないない尽くし、誰に主張する訳でもない。
でも行きがかかり上、どうしてこういう事態に陥ってしまったのか説明させて頂くと、昼は暑くても乾燥しているから汗をかかない。ギリギリまで釣りをして日が落ちると一気に気温が下がるから、そんな中で水浴びしたら寒い。寒いどころか、それは修行者のすることと思われる。川にはワニがいるし、陸にはサソリもいるのだ。
そんな危険を犯してまで、体を綺麗にすることはない。頭も痒くないし、そんなに臭くないような気もする。この頃になると、靴下をサングラスケース代わりにしていたりもする。
日焼けを確認する為に鏡を覗き込んだら、非常事態発生中!鼻毛が出ている。一本とか二本じゃない、バーバーと自由気ままにはみ出している。やっぱり、砂漠で埃っぽいからかなぁ?なんて落ち着いていないで、これはちょっと人間から外れ始めたと感じ、比較的急いでムダ毛処理をし、あまりに風が強くてここで水浴びを強行した暁には、体力の消耗が激しすぎると科学的に推測した上で着替えだけ無事に済ませたのであった。
魔海
ランボーがせっかく日本から来たんだから船を出そうと無理矢理トローリングを試み、沖に向かって進む。
だんだん波が高くなって、水の色が真っ黒く見える。遠くから見て想像していたよりひどい。数日前の白砂に青く透明な湖の趣は無く、転覆したら何が飛び出して来てもおかしくない魔海に見える。
「このボートは、下に重心があるからひっくりかえらない、よしっ30メートル出せ。」
ひっくり返らないって言っても、横に傾いたときに水が入ってきているぞ、ボートのどこかにつかまっていなければ振り落とされそうだし、万が一、魚がかかったらどうするんだ?それに、重心が上にある船なんてないだろ?無理、無理、無理だって!こういう時は、退くこともまた勇気だ。
「ここは、前に一日で三匹も50キロが釣れたんだ。」そう言いながらランボーは、三十分近くもボートを走らせた。
荷物も寝袋もびしょ濡れ。気持ち悪い気もしてきた。
もういいんだ!せっかく日本からはるばる20時間もかけてやって来たけど、俺はとっくに満足している。頼む、頼むから助けてくれぇ~。っつうか、マジでもうやめろって。
「この波と風じゃ、トローリングは無理だ。」ランボーがきっぱり言った。
「分かった。残念だが、帰ろう。」私がきっぱり言った。
無事生還した我々は、明日には風が落ち着くことを本気で願い、日暮れと同時に寝袋に収まった。寝袋は、濡れて冷たかった…。
5日目
風は、若干弱くはなったものの波は立派に白い。男は世間の荒波に揉まれろ!と言われるがそれはものの例えであって、本物の波に揉まれる必要はないだろう。
昨日に比べれば波が低いものの、それは昨日に比べただけのことであり、仮におとといと比べたならば、これは立派に殺傷能力があると冷静に状況の判断を下す。下したところで何もかわらないけど。
とにかく沈め
ここでついに秘密兵器投入。それぞれが素人ながらに予測して揃えた、最も深く沈む、最も高価なルアーを流す。
どれだけボートを走らせてもルアーが底に当たらない。魚は、水中・水底の木や岩の近くにひそんでいるのだから、ここではダメなんじゃないだろうか?水底に隆起している部分も見えない。相変わらず真っ黒い水と白い波しか見えない。そして、揺れて気持ち悪い。
ズィーーーーーッ!
来た!明らかに今までとアタリ方が違う。あっ、外れた。またすぐに、ズィーーーーーッ!来た!今度は、吉田だ。あっ外れた。何だ、何だ、何なんだ?
吉田のルアーの針の三本の内、後ろ二本が開いて伸びている。いるのか?何かいるのか?
ズィーーーーーッ!来た!今度こそっ!あっ、外れた。しかも今度は、ルアーが無い。糸は、昨日変えたばかり、直径1ミリのリーダーがすっぱり切れている。何がいるんだ?
そして、六千円のルアーは、どこへ行った?
本気パワー
こうなってくると波とか風とか気にならない。ルアーをラパラ社のCDマグナム22cmのレッドヘッドに変え走り出して間無しに、ズッガ~ン!!!!竿が曲がった!!
ズィーズィーズィーズィーズィーーー、ズィーズィーズィーーー、糸が止まらない。ま、まさかリールに巻いてある二百メートルの糸が全部引き出されるのか?
「ランボー!」
「分かっている。間違いない。とてつもなく大きい。まだ、糸を巻くな!」
ボートを回したくても、この風だ。さすがのランボーもてこずっている。その間にも糸が止まらない。
「よしっ、竿を立てろ。」
ボートが魚と同じ向きになっているのに、まだ糸が出る。少しずつ、少しずつボートを寄せて、糸を巻き取る。必要以上に糸に張りが出ると、一気に走り出す。
「聖、時間はある。時間をかけて釣り上げよう。分かっていると思うが、大きいぞ。丁寧に丁寧に。俺は、お前がデカイの釣りそうだって言ったよな?」
「この魚100キロはあるねぇ、ねえねえ、吉田さん、格闘中の写真撮って。」
「魚に集中しろっっっ!」いきなりランボーがキレた。マジかよ。
巻き取っても、糸が出る。巻き取っても、出る。
風と波が気にならないというのは、怖くなくなっただけのことで、この安定しないボートの上で糸を弛ませないようにするには難しい。波が当たる度に、フラフラッと二、三歩動いてしまう。
おまけに、下痢はいまだに続いていて、うっかりふんばったりするとどうなるかわかったもんじゃない。状況は、全く予断を許さない。
「もう、30分たったよ。」吉田の一言に我に返った。もう、30分か?腕も疲れたけど、喉が渇いた。周りを見ると、日が沈みかかっている。近藤と吉田は、荷物置き場に移動して小さくなっていた。ウロウロして邪魔だからあっち行ってろって、ランボーに怒られたらしい。
俺のセリフ
「聖、これは、相当デカイぞ。俺はこの魚を逃したくない。」
「いや、それ俺のセリフだろ?ランボー。」
ボートの真下まで魚が来た。あとは、ゆっくり浮かせるだけだ。一呼吸ついて竿を立てようとしても、ビクともしない。何だどうしたんだ?、まさか、根掛かりだったりして。
「多分、岩の下に入った。そのまま糸を張り続けて、魚が出てくるまで待とう。」
糸が弾けるように飛び出してきたり、もぞもぞと吸い込まれたり。水中では、どうなっているんだ?魚なのか?魚だとしても上げられるのか?巻き上げた糸が擦れて、ザラザラに傷ついている。まだ、動かない、誰も喋らない。もう、日が沈みそうだ。日が沈んだら、何も見えなくなるし、この波だと帰るにも危険だろう。
ランボーが、そっと首を横に振った。
「もう一度、ボートを逆側に回してダメなら糸を切ろう。」
私は、ただ頷いた。自分の腕前も理解しているつもりだし、ここまで来れただけでも満足していたから、不思議な程あっさり諦めがついていた。
ボートを回しても同じだった、もう一時間近い。
最後は、自分で。力一杯で竿を立てた。糸が柔らかく、目の前で揺らめく。
「ああああぁぁぁぁ。」私以外の三人の声が上がる。
私の背中越しに、ランボーが
「ルアーついている?それとも無くなった?」
「ん?!何?」
「ルアーがついているのかっ?それとも…。」
言いかけたランボー。
あっ?!
あっ?!振り向きざまにランボーの目を見た。ランボーの黒い瞳に光の玉がハジけたっ!
そうだ、シンキングルアーだからルアーがついていたら糸は弛まない、糸が切れてルアーが無くなっていたら、この風で糸が水上にたなびくはず。まだ、掛かったままで浮いてきているんだよっっ。ランボーも気づいている、エンジン再始動。私も弛んだ糸を一気に巻き取る。
一瞬!なのに、時間が止まっているように、思いと行動が両A面。
グ~ンッ!竿が重くしなる。いたっ!まだ掛かったままだ。また、糸が引き出される。まだ、行くのか?ここまできたら無理は出来ない。糸がいつ切れてもおかしくない。また、スーッと糸が弛む。ジャンプしようとしたのか、上がってきた勢いか半身を水面に出してから横たわった。
「おっおっおっあぁぁぁ~!!なんだこれっ、俺より大きいよ。」
「すげぇすげぇ、こりゃヤバイもん見ちゃったよ~。」はしゃぐ近藤と吉田。
「時間がかかり過ぎて魚が死にそうだ。このまま逃がしていいか?」ランボーが聞く。
「頼む、1枚だけ写真撮らせて。」
上がってきた魚に、さらに大はしゃぎの近藤と吉田。
私は、何も思わなかった。思えなかった。自分で自分を確認して放心していたわけでもなく、ただ、その魚を目の前に見つめるだけで、その魚にありがとうともお疲れ様ともかける言葉が見つからなかった。
濡らした柔らかい布に包んで、3人掛かりで計量。75キロ。申し分ない。うまく写真を撮ろうとしても、重すぎてビクともしなかった。
ランボーがこの場所にこだわり続けた理由が分かる。魔海には、とんでもないものがいた。
6日目
朝、風は止んでいて、魔海は、青く透明な湖に戻っていた。移動しながら釣りをする、消化試合みたいな穏やかな午後…。
近藤が釣り上げたタイガーフィッシュのルアー針が上手く外れず、ランボーがナイフを取ってくれと片手で合図したとき、ランボーが悲鳴を上げた。血が流れ出ている。
何だ?何が起きたんだ?手のひらが血だらけで傷が見えない。
「どうしたの?」
「タイガーフィッシュが噛み付いた。」
ピラニアと違って、歯が鋭いだけでたいしたことないと思っていた。今まで、タイガーフィッシュの歯が鋭いとは本で読んだことがあっても、ケガをしたとか、触れたら危険とかは聞いたことはない。正直、見た目だけでタイガーなんじゃないのか?となめてかかっていた。ランボーの傷は、かなり深くよく見ると5ヵ所も穴が開いている。相当痛いのか、さすがのランボーもおとなしくなった。
タイガーフィッシュ
ボートを止めろ
「おっランボー、何かアタッた。」
「おかしい、ここは、深いから底には当たらないはずだ。」
「いや、やっぱり何かアタっている。ボートを止めろ。」
「じゃあ、いいから巻いてみろ。」速度を緩める気もない。
バシャバシャー、水柱が立つ。
「タイガーフィッシュ!ハンパなくデカイ!」
「だから、俺が言っただろ。ボートを止めろ。」
大きいのはわかっても、昨日が昨日だけに興奮も緊張もなく、あっさり引き抜いた。
「とても大きい、滅多に見られない。もしかしたら、今まで俺が見た中で一番大きいかも。」
魚がかかるとランボーが一番興奮しちゃう。
普通、ガイドなら釣ったときにおめでとうとか、感想は?とか聞くだろうに、ランボーは自分が大きい声出して、興奮して感想を言っちゃう。それだから愛着も沸くしウソじゃないんだろうな、でも満足して勝手に魚を放すなよ、ランボー。
大ナマズ
まだ触れてもいなかったが、ここには、電気ナマズとヴゥンドウというナマズがいるらしい。
夜に、しかも真夜中に浅瀬に上がってくるらしいので、毎晩仕掛けは出しておいた。餌は、ティラピアの切り身。普通で10kg、大きいものは50kgにもなる。
ヴゥンドウって何だ?見てみたい。その夜、ついにアタリが来る。アタリが来るけど掛からない。リールのドラグをいっぱいまで緩めて、ジリジリジーッと糸が出るたびに寝袋から飛び出すも、針には掛からない。しばらくアタリが止んだ。
ドッボッーン!!来た~!ヘッドライトを点けて飛び起きると、糸が弛んでいる?
「ほうっほうっ、冷てぇぇぇ。」吉田がトイレに起きてボートから降りたら、陸ではなくて水の中だったらしい。係留してあったロープが弛んで、ボートが岸から離れていたのに気づかず、確認しないまま飛び降りたのだ。
「思ったより深く、胸くらいまで浸かった。」と言っていた。とても冷たかったとも言っていた。それは、そうだ!夜中は、15℃を下回っている。夜中のトイレは命懸け。
7日目
もう、南下せずにアスワンに向けて、行きとは反対側の岸を進む。太陽もまぶしく、光が差し込んで浅い底が見える。ランボーの歌も復活し、のどかなクルージング、いやいやトローリングを楽しむ。
一週間前とは違い、ルアーが底に当たった、水草が引っ掛かった、ルアーがうまく泳いでいない、と三人とも手に取るように分かってくる。
水面に岩が一つ突出しているこの場所が、今日の釣り場。確かに、その岩の周りは、ナイルパーチの10キロサイズとタイガーフィッシュがよく釣れる。ここに来て、初めて二人同時に掛かったり、どんなルアーにも反応があって飽きない。
何かおかしい
「ここは、数を釣って、最後に良い思い出を作る場所なんだねぇ。」
三人で話しているうちに私に掛かった1匹がおかしい。全然、上がって来ない。巻いても巻いても糸が出る。むしろ、出ていく糸の方が多い気すらしてきた。
岩の周りは浅いが、意外にも水が流れている。流れの下流に魚が行ったのかな?どうなんだ?よくわからない。
「何やってんだ、時間かかり過ぎだ。どんどん巻け。」ランボーがなぜか苛立っている。
なに怒ってんだ?
「ドラグ緩め過ぎているだろ、ほら、こんなに緩めたらいつまでたっても上がって来ない。」
と、人のリールのドラグをきつく締める。だから何怒ってんだ?
それでも、上がって来ない。
「ヴゥンドウかも。とにかくどんどん巻け。」
「分かっている、でも重いんだよ。」
竿を立てても、魚が上がってくる気配がしない。こんなやりとりをしている内に三十分が過ぎて、やっと魚が上がってきた。水中にユラユラ金色の物が浮いてきて、
「何、何、何の魚?」皆で覗き込んでいても、そこから上がって来ない。重たいなぁと思いつつ、どんどん巻いて上げていく内に、四人とも血の気が引いて顔が青くなっていく気がした。少なくとも私は、その雰囲気を感じた。
ここは、そんなに浅くなかったのだ。透明過ぎて浅いと勘違いしていただけだった。金色の物は、徐々に魚の形になってきた。ナイルパーチだった。
ボート後ろの水面で、バッシャバッシャ水柱を、というより、ドンッドカ~ンと水壁を打ち立てている。
「ランボー、ボート回して。岩から離れて欲しい。」
「わかっている。」
魚の動きをよく感じて、深く潜らせないように上手く回して釣り上げた。
「マジかよ~、一昨日のより大きいんじゃないの?」吉田。
「一人で全部釣っちゃったね。」近藤。
「ありえねぇ~、お前は、ただのラッキーマンじゃない!マンモスラッキーだ、めちゃんこラッキーだ。」ランボーが、また取り乱した。
取り込む時間が一昨日より短かったからか、全身は銀色より金色に近く輝いていて、その大きさと重さの為に、やっぱり持ち上がらなかった。
8日目
近藤が、1日に20kg以上のナイルパーチを10匹以上釣る。そんなに釣れれば満足かと思ったら、自分だけが50kg以上を釣っていないので、5月にまた来たいと闘志をあらわに話していた。
確かに、ヴゥンドウも釣れなかったし、水温が上がる5月にくれば、フグの幼魚やその他の幼魚、動物も見られるかもしれない。
9日目
最終日にまた少しだけ釣りをして帰る道中、港が見える程の近くでボートが故障してエンジンが止まった。少し焦った。最後の最後まで刺激盛りだくさんの、満足のいく旅だった。
水上で過ごした一週間ですっかり日に焼けてしまった。
釣りが終わってからもエジプト見学の旅を続けた。
アスワンでケガをした吉田の傷が化膿して病院に連れて行ったら、いきなり肩と尻に注射を打たれてびっくりした。かと思えば、近藤はどさくさに紛れて紅海でダイビングのライセンスを取得して、「これから、ダイビングの時代が来る。」なんて言っているし。
あれ?5月にナイルパーチ再戦!と言ってなかったか?